サウンド的にどこか切なさが漂う…この歌は、一時的にジョニ・ミッチェルとの関係を歌ったと言われている。ジャクソン・ブラウンはモテたからね〜
このジャクソン・ブラウンの3枚目のアルバム『Late For The Sky』は、1970年代前半のウエストコースト・ロックを代表する傑作‼️ピアノやアコースティック・ギターを基本にした素朴なサウンドで、いかにも“シンガー・ソングライターの時代到来!”を感じさせる名盤中の名盤✨だ。
先日のコラムで”ビッグ ウェンズデイ” を絶賛したけど、やはり俺達の時代はサーフ文化を抜きにしては語れない時代だった。
日限萬里子(ヒギリマリコ)という名前を聞いたことがあるだろうか。彼女は、大阪島之内出身の実業家・空間プロデューサーで、大阪・ミナミの寂れた一角に店を出したことで若者の集まる町の自然発生のきっかけを作り、アメリカ村🇺🇸の”産みの親”と、なったことで知られている。おそらくみなさんはご存知ないだろう…🤔1978年にはディスコ『PALMS🌴』も開業し、大阪でのディスコブームの火付け役となったのだ。俺はその『PALMS🌴BAR』で、偶然に日限萬里子さんとお会いした事があって、お話を聞いたことがある。「私がアメリカ村を創ったのよ」と、仰っていた。オイラが神戸から来たと言うと「神戸はダメね!夜の街は死んでるわ」「それと、女の子がみんな大人しいわ」と、仰ったのを覚えている。
そんな『PALMS🌴』は、ミナミ、アメ村の感覚で言えば、はずれに当たる四ツ橋筋に面したクラシックなビルをフル活用した、今から思い出しても本当に刺激的な空間だった。
店内にはボズ・スキャッグスが流れ、CoorsやPrimo、Budweiser等の🇺🇸のBEERが冷えていた。四つ橋筋に面した1階は、オープンテラス🌴になっていて、気軽に入れる店だった。朝の4時まで開いていたので、宗右衛門町にあったディスコ”ZIZIQUE“の後、”踊り疲れたディスコの帰り〜♪”に、地下鉄の始発が出るまで飲んだこともあった。オール🌃でみんなよく遊んでいた時代だった。
大阪ミナミのアメリカ村🇺🇸は、まぁ言わば”リトル・L.A🌴”といった刺激的な風情のエリアだ。
もともと炭屋町と呼ばれていたこのエリアは、1970年代には空いていた倉庫などを改装した店舗で西海岸からの輸入ジーンズや古着、中古レコードやサーフボードなどを売るショップが次々と生まれた。それもこれも日限萬里子さんWORKSだ。
また当時、心斎橋を拠点に活躍していたグラフィックデザイナー・黒田征太郎氏や日本の女性下着に革命をもたらしたデザイナー・鴨居羊子氏など新進気鋭のクリエーターらからの支持を受け、徐々に単なる倉庫街から新しい文化を発信する街へ脱却していった。
俺なりのアメ村・ツアーの鉄板コースがあって、まずは、道頓堀のスポタカに、サーフウェアやスキー板を見に行った後、銀ブラならぬ、アメぶら🚶、輸入盤レコードを買って、鰻谷の明治軒で、オムライス&串かつを食って、早めの時間から心斎橋の『百番🍶』で🍺を飲む…そんな感じだった。百番は安くて、一人も2000円あれば十分だったからね。サーファー・ガールも沢山いたし。
“GOODS” “Head high” “ラハイナ” “アンクル・サム” ワーゲンが店のエントランスに埋め込まれていた “マイ・ウェイ”等。中古ウェアやサーフ系のショップが多くあった。とにかく見るもの全て新鮮✨だった。
メイン通りに立ち並ぶショップからはジャクソン・ブラウン、イーグルス、ドゥービー・ブラザーズ、パブロ・クルーズ、シルバー、カラパナ、セシリオ&カポノ、リンダ・ロンシュタット、ニコレット・ラーソン、リタ・クーリッジ等の、ウエスト・コースト・サウンドが溢れ、歩いているだけでウキウキ🎶🤩するような町だった。そんな町は世界中どこを探してもなかった。
アメ村を歩いたら必ずどこからか、この”You“が流れていた。こんな曲が流れる街って素敵やない!(*˘︶˘*)🎶。アメ村にはそんなウエスト・コースト・サウンド♬がいつも溢れていた。
アメ村内のディスコ”キサナドゥ”に行った時、この曲がかかり、「You!」と歌うところで、踊ってる女の子は気に入った男を両指で指す!(☞゚∀゚)☞みたいないわゆる逆ナン‼️🤔ってのが定番だった。男はそれは出来ないのだけれど…俺も一度だけ女の子に指を股間に指をさされた(☞゚∀゚)☞俺は「キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!」と思った!でも、「エッ⁉️何で股間??(゜o゜;」と思ったらジーンズのジッパーが全開だった(*ノω・*)テヘ ソレを教えてくれただけだったರ😮💨「どんなんや!(>0<;)」でも、爆笑!🤣だった。救いは、オイラの鳩ポッポ🐦は顔を出してなかった(笑)喋るキッカケをくれてSunkus!🤗
サーフショップ🏄からはSEXWAX(サーフボードの滑り止め)のココナッツ🥥甘い香りが漂い、スレ違うサーファーからはMuskの芳しい香りがしていた。アメ村の香りの印象は、これらと輸入盤の封を開けたときの匂いだ。アメ村には音楽♬と甘い香り💗が充満していた。
サーフブランドのLightning Bolt ⚡、Town&Country、Dick brewer等のTシャツやヘンリーネックシャツ、アロハを着て、USEDのLevis501やコールテンのパンツを穿き、足元はadidasの”Tobacco”や”Country”、コンバース・オールスター、Pro・KEDS、Tony Lamaのブーツ、レインボーサンダル、アロハの襟元にはプカシェル、指にはターコイズ(トルコ石)のリングをするのが基本スタイルだった。男の髪型はみんなジャクソン・ブラウンやジェリー・ロペスを真似たおかっぱサーファーカットだった。
女の子のサーファーはみんな、Domingoのファッション・ジーンズやセミバギーのジーンズを穿き、細かいフラワープリント柄のシャツを着ていた。、この頃は、スニーカーを履く女の子は少なく、トニー・ラマ👢のブーツやエスパドリーユを履いている女の子が多かった。ファラ・フォーセット・メジャースの髪型を真似していた。
オイラが大学生の頃は、ファッション雑誌の影響が大きく、POPEYE➡西海岸➡アメリカ村という図式で、紹介記事も大いに役立った。”若者はサーファーか、それ以外か…”という風潮だった(笑)女性誌でもこのブームは、無視できなく『JJ』でもサーフ・ファッションは紹介されていた、
夜は百番🍶を飲んで晩飯を食って帰る…というのが基本の流れだった。
その頃に思ったことは、いつかこんなサーフショップを俺も持ちたい!と…
ココに通ったことが後に、俺の人生に大な影響を与えた。15年間レコード販売会社で働き、12年間サーフショップを経営したからだ。商売は成功とはいかなかったけど、その間はとてもHappy!🥰な年月を過ごした。
それもこれもオイラの人生の大半はこのアメリカ村文化が原点となっている。
“音楽と海とファッション👖と…”
https://youtu.b…
https://youtu.b…
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最近ジャクソン・ブラウンの来日公演があったそうですね。観た人によると凄く良かったとのこと。
行けば良かったと後悔してます。
70年代のジャクソン・ブラウン大好きでした。高校・大学時代はずっと彼を意識した髪型をしていました。
誰も指摘してくれなかったけど。
若い子にその頃の髪型を説明する時は「キムタク風」と言っていますが。
ジャクソンはマメに日本に来てライブをやっている数少ないSSWです。
この次代のSSWで、ちゃんちゃんと日本に来てライブをしてくれていた、ボビー・コールドウェルが亡くなったのはショックでした。過去に、一度だけ、フェスティバルホールに行ったことがあります。
君のおかっぱ頭は、想像出来ませんが…(笑)ジャクソン・ブラウンというよりも…チャーリー・ブラウンの方がお似合いかと…
せめて、ジェームス・ブラウンでお願いします。
ゲロッパ!
僕の友人の奥さんが、JBのことを「ケロンパ」と言ってました。
「惜しい!それはロンパールームのうつみ宮土理やぁ〜ゆうねん!と、突っ込んでやりました。その後、彼女のあだ名は"ケロンパ"になりました。
ナイトウォーカー=ビッチやないけどね。
日本なら"立ちんぼ"なんで"ナイトスタンド・アップ"やないかな?、