日本のポピュラー音楽史に残る数々の名曲を生んだ音楽家・加藤和彦の軌跡をたどったドキュメンタリー。「ザ・フォーク・クルセダーズ」や「サディスティック・ミカ・バンド(注:プラスティック・オノ・バンドを真似た)」など時代を先取りした音楽性で多くの人々に影響を与え、❝トノバン❞の愛称で親しまれた加藤和彦。
『何故、加藤和彦はトノバンの愛称なのか…』まずはその素朴な疑問から🤠…
それはスコットランド🏴のフォーク・シンガー、ドノヴァンの声に加藤和彦が似ていたからだ。トノバンの声は少し震え声やけどね。
この映画ポスターを観た時、ポール・マッカートニーの❝出ておいでよ、お嬢さん〜Eat At Home❞のシングル盤のJKTを思い出した(☉。☉)! とてもい在りし日のトノバンのポスターだ!🤓
トノバンの買い物袋からバゲット🥖が覗いてる画はとても似合うだろうね。
日本初✨のミリオンヒット‼️を生んだザ・フォーク・クルセダーズの結成秘話、世界🌐進出を果たしたサディスティック・ミカ・バンドの海外公演やレコーディング風景をとらえた貴重な映像。日本のポップスの金字塔✨といわれる“ヨーロッパ3部作”に隠された逸話などを紹介。さらに、不朽の名曲❝あの素晴らしい愛をもう一度❞を新たにレコーディングし、さまざまなジャンルのミュージシャンによって進化する楽曲の姿を映し出す。ミュージシャン故・高橋幸宏が加藤に寄せた思いから映画の企画が立ち上がり、「SUKITA 刻まれたアーティストたちの一瞬」の相原裕美が企画・監督・プロデュースを担当。
日曜日に元町映画館に『トノバン〜音楽界加藤和彦とその時代』を観に行ってきた。独り👤で映画🎦を観るのは久々だ。この作品は、1日に1度のみの上映だ。100人ほどのキャパの小さな映画館だけど、整理券が配られてていて、おいらは51番だった。館内は満員だった。それでも前から2番目の席のど真ん中の席を取れた。意外にみんな興味あるんやね。シニアの方々が多いのは嬉しい限りだ!🤠みんなトノバンの音楽♬が青春を彩っとてたんやろね。🤠
とにかくおいらにとって加藤和彦は何かと人生の節目々において、思い出深いミュージシャンだ。
おいらが学校に行くのがめちゃくちゃ楽しかった小学6年生の時に📻で聴いた❝帰って来たヨッパライ❞ 当時はGSブーム真っ只中で、GSでもない!歌謡曲でもない!はたまたフォークでもない!なんちゅう歌や!🥶(⑉⊙ȏ⊙)と、思ってラジオから流れるこの曲を毎日何度も聴いていた。この妙なコミカルな曲は、音楽ベスト・テン番組では1位👑を取り続けていた。ビートルズの❝A Hard Day’s Night❞の、フレーズが入ってることにも驚いた!そして、ラストはベートーヴェンの❝エリーゼのために❞だ!なんちゅう曲や!(・o・;) とにかくおいらの人生において、最も衝撃‼️を受けた🥶曲の1つだ。
おいらのラジオ📻デイズ♪の始まりはこの曲からだと思う。そしてその次にリリースされた曲がおいらにとってとても思い出深い曲となる。❝イムジン河❞だ。しかし、なんとも曲とは裏腹な、サイケなJKTだろう🤠 この頃は。サイケデリックやフラワー🌼ムーヴメント全盛期やったからかな🤔…
もう幾度となくコラムに書いていて、またその話かい!🥴と、思われそうやけど、おいらの輝ける初のヴァレンタイン❤チョコ🍫ゲット!の話を又々しよう😁。おいらが小6の冬‥卒業式の謝恩会で披露する合唱曲♬。クラスの演目で歌うのが、❝イムジン河❞だった。そしてその日はヴァレンタイン❤デイで、クラスで❝イムジン河❞ 放課後に合唱の練習を講堂でして、練習が終わった後にたまたま鞄を取りに独りで誰もいない教室に戻った時に、机の中にチョコ🍫が入っていた。直感(☉。☉)!で、当時好きだった中島さんやと思い、ふと雪の降りしきる校庭を見やると、彼女は赤のタータンチェックのマフラーを巻いて、雪がしんしんと降り積もる真っ白な校庭に足跡をつけながら帰ってゆく姿を見て、おいらは思わず窓を開けて『中島〜‼️ありがとなぁ〰️‼️🤩』と叫んだ。彼女は振り向いて小さくバイバイ👋してくれた。彼女の赤いマフラーと白い雪の対比が忘れられない、人生で初めてヴァレンタイン🍫チョコをもらった思い出が鮮明に蘇るのだ!その後、中島さんは県立長田高校に行ったという噂を聞いた。
嬉しい思い出に、とても悲しい歌だから余計に際立つ…
みなさんは知ってましたか??ザ・フォーク・クルセダーズのヒット曲‼️❝悲しくてやりきれない❞は、このイムジン河を逆回転にして出来た曲だって事を‥やはりトノバンは天才✨やね。発想が突飛で、凡人では思いつけない!『何かBrand New✨なものを!』と、実験も色々としていたんやろね。
❝帰って来たヨッパライ❞のアイデアといい、朝鮮民謡の❝イムジン河❞を日本語訳でリリースしたり、発想が斬新すぎる!(≧▽≦)
❝悲しくてやりきりない❞は、暗く、絶望的な歌詞だけど、何故かとても好きだ( ꈍᴗꈍ)カラオケ🎤でもたまに歌いたくなる。🎦映画『パッチギ』を観て、この2つのフォークルの名曲✨を聴いて胸がいっぱいになった(TT)井筒監督のこの映画は、おいらのための映画やん!🤓そしてこの曲も…(TT) 素敵な思い出やん。
そして、続編の『パッチギ❗ Love&Peace』には、高校の先輩の岡元八郎君が出ている。とにかくキャストが凄すぎるからね〜(ノ*0*)ノ西島秀俊も出てるし…ロン毛にベルボトム穿いてるけどね(笑)ヒロインの若い中村ゆりが可愛い💚
冒頭の国士舘大学🆚東京朝鮮高校の喧嘩がなかなかなかのもの。
そして、高校生になってベッツイ&クリスの❝白い色は恋人の色❞の作曲や、❝あの素晴らしい愛をもう一度❞の発売で、シングル盤を買って死ぬほど聴いた15歳の春🌸🌸
❝あの素晴らしい愛をもう一度❞は、元々シモンズの為に書いた曲だけど、あまりの出来の良さに自分達で歌う事にした…という曲♬😁代わりに別の曲を贈った。確か、❝思い出の指輪❞やったか…🤔
❝白い色は恋人の色❝は、❝帰って来たヨッパライ❞や❝イムジン河❞を作った人と同じ人が作ったとは到底思えなかった!(゜o゜; この繊細で純粋な歌に加藤和彦の音楽の多様性に驚いた!(ʘᗩʘ’)
❝あの素晴らしい愛をもう一度❞に関しては、高校入学直後の時だけに、この曲を聴くと当時1年8組の友達や、下校時の夕焼け🌆の校庭を思い出す…赤とんぼも空をふわふわと泳いでいた…( ꈍᴗꈍ)
そして大学に入ると、今度は『サディスティック・ミカ・バンド』の❝タイムマシンにおねがい❞をディスコでアホみたいな顔して踊っていた事‥栂池や志賀高原のスキー場のディスコで、またまたアホ顔で踊っていた事を思い出す。ラスト…”タイムマシーンにおねがい…“のリフが、いつ終わるのか…と、踊りながら考えていた。”タイムマシーンに、お〜ねがい〜タイムマシーンにお〜ねがい〜タイム…“と突然に曲が終わったあとの手持ち無沙汰ったらありゃしない!アホ顔🤪から、素😑に戻る瞬間だ。
編曲:サディスティック・ミカ・バンド
そして竹内まりやの❝不思議なピーチパイ❞の曲を聴いて加藤和彦の作曲🖊だと言うことに驚いた!🤓こんなポップな曲も書けるんや!(≧▽≦)と…だって、❝悲しくてやりきれない❞の人やからね⁉️🥴そしてユーミンの白いベレGならぬ、❝黄色いロールス・ロイス❞でのユーミンとトノバンの共演。そしてユーミンは、「サディスティック・ミカ・バンドのヴォーカルに憧れた!」とも語っている。そして一夜限りのサディスティック・ユミ・バンドが実現した!なんと、ユーミンは12年もその思いを胸に秘めていたらしい。
とにかく、日本の音楽シーンを次々に、誰もやらない…やれない新しいものを取り入れ、常に❝半歩先❞を行くトノバン。(一歩先だと、初期のボウイみたいに、人は付いてこれなくなっちゃうのかもね🤔…)トノバンは、チラチラ後ろを振り返りながら、半歩先をいつも歩いていたんやろね。『ついておいで!😙』みたいな。ただ、正直言うとヨーロッパ3部作の辺りから聴かなくなった。ただ、この3部作の時代がトノバンが一番尖って、光り輝いていた時代だ。何処にも無い加藤和彦ワールドの音楽だろう。
多くのミュージシャンが、憧れとリスペクトを抱いたカリスマだ。とにかく何事をやるにしてもトノバンはスマートで、音楽・ファッション・料理と全て一流✨!その道の匠が認めるほどの、ワン・アンド・オンリーな人物であるということは間違いない!
これは余談だけど、加藤和彦、大瀧詠一は同世代であり、各々バンドでデビューし、自分のソロ活動以外にも楽曲提供やプロデュース、アレンジ・エンジニアとして活動する才能を持っていた。二人の顔合わせ自体は無かったが、二人には細野晴臣や鈴木茂という共通の友人がいた。時代を並走した二人、そして90年代初めに誰よりも早くフリッパーズ・ギターを評価したのがこの二人だった。世界一のネオ・アコースティック✨と称した。(東の横綱)大瀧詠一🆚(西の横綱)加藤和彦🤓だ。
加藤和彦は、ファッションやライフスタイルなどスノップな部分で注目される事が多かったが、早い時期からのビートルズ研究家の一面も持っており、エンジニア的な要素が垣間みれた。トノバンは、ビートルズに倣って、常に『進化』していったのかも知れないね。同じような曲を作らないという事に、拘ったのかな🤔…
【🎦トノバン CAST】
盟友の北山修、松山猛。吉田拓郎、つのだ☆ひろ、高橋幸宏、高中正義、小原礼、坂本龍一、泉谷しげる、清水信之たちが語るトノバンへのリスペクトと愛情には熱いものがある。
『稀代の天才は表面的には遊んでいるように見えて、それを厳しく見つめる評論家のような分身を自らの内に抱え込んでいる。厳しい加藤は、もちろん自分自身にも、そして共作者の私も厳しかったし、私が何回書き直してもダメ出しが続いたものだ。ところが、良い作品ができた途端に、天使👼のように微笑んでくれた。忘れもしない、❝あの素晴らしい愛をもう一度❞の歌詞ができた日、「最高だよ!最高!」と言ってはしゃぐ電話の声が今でも耳に聞こえる。時間にして、彼の作曲が1日、私の作詞が1日という短さだった。』
《談:北山修》
松任谷正隆(マンタ)は、東急百貨店でコンテストで加藤和彦が審査員で、「僕を見つけて、拾ってくれた」とまで言っている。正隆ちゃんの著書にも書いてある。また、吉田拓郎のアレンジャーとしても、松任谷正隆を拓郎に紹介したりね。凄いね!🤓もうJ―POPの根っこやん!🤠
何時間でも聴いていられる🤠🤠ホント2人は楽しそうやねあ👥
拓郎は正隆ちゃんのアレンジをベタ褒めしていたけど、おいらが正隆ちゃんのアレンジが凄い!と思ったのがこの曲♬出だしがなんかプログレなんよね〜シンセサイザー〜ドラム🥁ブレイク‥そしてトランペット🎺への流れがめちゃくちゃハイセンス!✨大好きです!(ノ◕ヮ◕)ノ*.✧ ハープも効いてるし、間奏の石川鷹彦のギターもいい。
トノバンの音楽の多様性や進化は『加藤和彦とはこんな音楽をやるミュージシャンだ』と、レッテルを貼られるのが極度に嫌いだったらしい。だから、フォーク⇒サイケ⇒ロック⇒ポップス⇒レゲエ⇒ヨーロピアンとの変遷は、トノバンが『同じ所に留まっていてはダメだ!』『変わらないといけない!』 という”進取の気質”故に、強迫観念や焦りに苛まれ、それが悲劇へと向かわせたのかもしれない…
同映画のメガホンをとった相原裕美🎦監督は、加藤和彦の音楽性について「すごく革新的!❝帰って来たヨッパライ❞〜サディスティック・ミカ・バンドまでなんて(音楽的に)つながらないですし、そのあいだに❝あの素晴しい愛をもう一度❞(北山修と共作)も手掛けています。いずれも自分のオリジナリティがある」とさまざまな驚きがあると語る。
おいらはエンドロールに流れる❝あの素晴らしい愛をもう一度❞のトリビュートに泣いた(TT)… でも、悲しかったからじゃない!稀代の名曲に感動したからだ。何百回聴いても思う…『なんて素晴らしい!イントロ🎸アルペジオなんだろう( ꈍᴗꈍ)』
凄い下手やんね😁庵野秀明🎦監督に『手に歌って』とオファーされたらしいよ😁三輪明日美さんは、気が楽に歌えたやろね。
❝あの素晴らしい愛をもう一度❞には一つも外来語が出て来ないんよね〜🤔純粋に日本語だけの歌♬
そういえばこのバンド・スコアをWAVEの先輩の戸田さんに送ってもらったけど、イントロのアルペジオがとても難しくてとてもやないけど弾けなかった…✧\(>o<)ノ✧🎸
初めて知ったのは、❝あの素晴らしい愛をもう一度❞のパーカッションのリズムは、サイモン&ガーファンクルの名曲✨❝ボクサー❞の曲の裏で聞こえるリズム🎶を見つけて作った…という話だった。
確かにタン・タ・タン🎶みたいな音が聴こえる🤔…コレか!
最後の最後にしょうもない事、言っていいですか?? ❝加藤和彦❞と❝斎藤佳和(私の本名)❞何かに気付きませんか??(ノ゚0゚)ノ~
❝藤と和❞ 2つも同じ漢字が名前に入ってるんです!(*ノω・*)テヘ!
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そんな映画、やっていたんですね。機会があれば、是非見てみたいと思います。
私も兄の影響で「帰って来たヨッパライ」「イムジン河」「悲しくてやりきれない」から同時代に聴いていて、彼の音楽が大好きでした。「白い色は恋人の色」「あの素晴しい愛をもう一度」なども家にシングル盤があったので、擦り切れる程聴きました。同じ頃吉田拓郎の「人間なんて」のアルバムもリピートして聴いていましたが、このアルバムのプロデューサーも加藤和彦だったはずです。「花嫁になる君に」のバックの難しそうなスリーフィンガーは加藤和彦が弾いていたと記憶しています。
RCA時代の竹内まりやの曲では加藤和彦が作った「戻っておいで、私の時間」「ドリーム・オブ・ユー」が断トツに好きでした。その後も「だいじょうぶマイ・フレンド」「愛・おぼえていますか」「ドゥー・ユー・リメンバー・ミー」中川勝彦の「Please understand me」高岡早紀への一連のヨーロピアン・テイストの提供曲など大好きな曲ばっかりで、レコードやCDをその度に購入していました。
本当にあんなに才能のあるアーティストがなんで自殺なんてしたのだろうと、今でも不思議に思います。
PS.)加藤和彦のあの写真、私もポールの「Eat at Home」のシングル盤ジャケットに似ていると思っていました。流石ですね。
コラム本分には書きたくなかったから書かなかった。
当時、加藤が精神的に異変をきたし、「死にたい」と漏らしていたのは知っていました。理由はいくつかあったと思います。ひとつは「創造ができなくなった」というのです。同じことを繰り返すのがイヤで、常に新しいものを生み出してきた加藤にとって、クリエーティブな活動ができなくなったということは、とてもつらいことだったに違いありません。
もうひとつは経済的に切迫していたことです。加藤はグルメだし、ファッションにもうるさい。つまり、お金をドンドン使っちゃう。でもヒット曲が出なくなると、作品の権利などをことごとく売ってしまい、無一文になっていたらしいのです。
と、北山修氏は語っている。
ボビーも凄い文才があるな!誤字脱字がないし、話がとても判り易いし、マニアックな事もよく知ってる。
中川勝彦がでてきた時は負けた!と思った(笑)ショコタンのお父さんやな。ワーナー・パイオニアやったかな??
同じ時代に音楽をよく聴いていた友人がいて嬉しい限り!妙にシンクロするところもあるしな。俺はミーハーやけど君はヲタクやな(笑)この作品を観られるチャンスは今週限りやと思う!ボビーは、果たしてこの映画を観て❝泣くのかいor泣かないのかい!?とっちなんだい!?❞
俺は、泣かないと見た!それはあまり入りこまない性格やからね。もし、泣けたなら君は年を取った‥ということやね。
お褒めいただき、ありがとうございます。
中川勝彦については、レコード屋になりたての頃にもらったサンプル盤で知りました。よくあのビジュアルの売れていない男性アイドルのアルバムを聴いたと思いますが、多分加藤和彦のクレジットに惹かれたのと若さ故だったと思います。
先に挙げた「Please understand me」を聴いた時はぶっ飛びました!
「こんなカッコいい曲を作る日本人がいるんだ!」と感動しました。
後日気付いたのですが、この曲はモット・ザ・フープルの名曲「すべての若き野郎ども」 に無茶苦茶インスパイアされていたのでした。そりゃ、カッコいい訳だ・・・
ただ安井かずみの詞も退廃的で素晴らしく、決してパクリでは片付けたくない名曲です。他にも中川勝彦のアルバムに収録されていた加藤和彦作品は佳曲が多く、是非再評価の機会を与えていただきたいと思っています。
しょこたんが出てきた時も驚きました。私より若かったはずの中川勝彦にこんな大きな娘がいたのかという驚きです。恐らくアイドル時代にできた子だと思うので、公にはしていなかったと思うからです。
加藤和彦の映画、是非見てみたいものです。
“Please understand me”聴いたよ。中川勝彦を、聴いたことが初めて。ブランキー・ジェット・シティか!(・o・;)はたまた、デヴィッド・ボウイか‥ってヴォーカルや。曲は確かにめちゃくちゃカッコイイ!デカダンスも漂ってるし…中川勝彦のアルバムJKT覚えてる。顔が写ってる白いジャケットやなかったかな??
中川勝彦がアイドルだったとは初めて知ったわ…(゜o゜;
さすが、分かってらっしゃる!
元歌の「すべての若き野郎ども」はデヴィッド・ボウイが作った提供曲です。しかも一度モット・ザ・フープルに渡したものの、あまりにも出来が良過ぎたので、違う曲を提供するから俺に返してくれと言って断られた、曰く付きの曲です。
日本ではほとんどヒットしなかったので、この曲に目を付けた加藤和彦もさすがの一言です。彼もこの頃はロンドンにいた筈です。
私の記憶では中川勝彦のアルバムジャケットは、水の中にいる彼の顔のアップで、色味は濃い蒼色だったと思います。彼のセカンド・アルバムのはずです。間違ってたらゴメンナサイ。