山口組が抗争終結の意向 組幹部が兵庫県警に伝達
捜査関係者によると、山口組ナンバー3の幹部ら3人が7日昼に県警本部を訪れ、抗争を終わらせるとの「宣誓書」を提出した。幹部は「離脱した者を今後は相手にせず、もめ事を起こさない」という趣旨の説明をしたという。

一方、いずれも特定抗争指定暴力団で、山口組と対立する神戸山口組や絆会、池田組は抗争終結の意思を示していないため、県警は山口組の動きを「一方的な終結宣言」と判断。実際に抗争が終わるかどうかを慎重に見極めるとみられる。
山口組は15年8月、上層部の組織運営や高額な上納金に反発した直系団体が離反し、分裂した。離反者は神戸山口組を結成した。神戸側からは17年に一部団体が離脱して任侠山口組(現・絆会)を設立し、20年には神戸傘下にあった池田組も離脱した。
警察庁によると、分裂以降、全国で山口組と他3団体の抗争とみられる事件は24年末までに116件あった。対立激化によって市民に危険が及ぶ恐れがあり、兵庫県公安委員会は20年、山口組と神戸山口組を特定抗争指定暴力団に指定。池田組や絆会も22~24年に指定した。
【特定抗争指定暴力団】
暴力団の対立抗争で市民に重大な危害が及ぶ恐れがある場合、都道府県の公安委員会が暴力団対策法に基づいて指定する。公安委の定める警戒区域内で、事務所への立ち入りや使用▽対立組員へのつきまとい▽おおむね5人以上の集合-などが禁じられる。違反すると、3年以下の懲役か500万以下の罰金、またはその両方が科される。指定の効力は3カ月で、必要に応じて延長される。
日本の三大ヤクザは、山口組、住吉会、稲川会。これらの団体は、全国的な主要な組織として知られている。
団体名 | 所在地 |
---|---|
山口組 | 兵庫県神戸市灘区篠原本町4-3-1 |
稲川会 | 東京都港区六本木7-8-4 |
住吉会 | 東京都新宿区新宿7丁目 26番7号 |
神戸という街の❝光と影❞…それは鎌倉にも❝光と影❞の有る町と言える。
鎌倉は、海沿いを江ノ電が走り、サーフィンのメッカでもあるが、神社仏閣もあるし、楽しい店がいっぱいありラキラしてるけれど。影の鎌倉は、古戦場。鎌倉時代には多くの戦があったり、武家の一族が滅ぼされたりして、次々と人が死んでいる歴史がある。
1185年、鎌倉幕府が誕生してから、3代将軍源実朝が暗殺されるなど、残忍な事件が多く起こった時代として知られ、今でも地元で語り継がれる怖い逸話も。そういった戦国時代の影の部分が根っこにある。
神戸はご存知の通り、山と海に挟まれた煌びやかな街並み、ファッショナブル✨️な街と呼ばれている反面、ヤクザ発祥の街…として知られている。

三代目〜急成長1942年(昭和17年)における山口登の死後、しばらくは跡目が決することなく組長不在の状態にあったものの、1946年(昭和21年)に田岡一雄を首領に据えた三代目体制が発足。
日本最大規模の暴力団山口組の礎を築き上げ、美空ひばりからは「お父ちゃん」と呼ばれるほど慕われた。政財界とのコネクションも持ち、あらゆる分野でその名をとどろかせるなど、「神」として崇められることも珍しくないヤクザがいた。その男の名は田岡一雄だ。




田岡は❝東洋のアル・カポネ❞と称される。アル・カポネはアメリカギャングの親玉だが、犯罪組織を近代化したことで知られる。


この田岡率いる三代目体制下にあって、昭和30年代(1955〜1964)から昭和40年代(1965〜1974)にかけて日本全国各地へ進出、対立抗争を繰り返しながら急速に勢力を拡大していった。

田岡襲名時の山口組の総勢はわずか33人に過ぎないものであった。それが1965年(昭和40年)までに、傘下424団体、総勢9,450名を数える巨大組織に発展。その間に当事者となった対立抗争は日本の各地を舞台としたもので、「小松島抗争」、「明友会抗争」などが主要なそれであった。
【田岡一雄のカリスマ性】
田岡一雄は、二代目山口組の山口登を侮辱した、当時の幹部だった大長八郎を惨殺し、刑に服しています。この一件でいち若衆だった田岡は、山口登の信任を受けることになります。田岡が出所したのは山口登の死後ですが、彼の死後長く跡目を置かず、舎弟一同で田岡を推挙したのは、二代目が信任していたという、カリスマ性がすでにあったのでしょう。
三代目になってからは、博徒の考えを破り、港湾荷役、神戸芸能社、中西工務店、甲陽運輸など合法的企業を使った資金を集めで組織を巨大化させて、従来の極道が考えもしなかった「全国制覇」を指向した事でしょう。また、昭和40年頃から開始された警察の「頂上作戦」においては、壊滅を目指した暴力団のうち、山口組以外の組織は(偽装)解散して警察のメンツを立て、山口組若頭の地道行男でさえ、解散を進言しているのに、田岡は最後まで屈服しませんでした。この際、資金源であった彼の合法的企業は軒並みつぶされましたが、「国家権力に屈しなかった極道の田岡」のカリスマは確定したといえます。
この事が、山口組と手を組んだ側はもちろん、敵対した組織にも「田岡の親分さん」と呼ばれるほどに畏敬の念を植え付けることになります。また、三代目山口組からは、地道・柳川・山健・ボンノ・加茂田・小田秀等々多くのスターヤクザが誕生しています。彼ら自身もすでに極道の世界ではカリスマなのですが、結局は彼らも田岡の子分でしかなく、彼らがスター化していけばいくほど、親分の田岡はさらにカリスマ性を備えていったのです。
警察当局によるいわゆる「第一次頂上作戦」のさなかで直系組長らの脱退と直系組織の解散が相次ぐに至り、一時期弱体化するも、勢力の回復を経て、田岡の死去の前年にあたる1980年(昭和55年)までに、2府33県に559団体、1万1800人あまりの総勢を擁する組織に成長した。そうした三代目体制期を築いた田岡は山口組の中興の祖として記憶されるに至った。

1984年(昭和59年)における竹中正久の襲名によって四代目体制が発足するも、これを不服とした勢力が離反し、一和会を結成。これを相手とする大規模な抗争(山一抗争)に突入した。
【一和会】

会長・山本広(山広組初代組長、元三代目山口組組長代行)
副会長兼理事長・加茂田重政(加茂田組組長、元三代目山口組若頭補佐)別名:あばれ政


その過程で抗争相手の一和会により暗殺された竹中に代わって、抗争が終結するに至った1989年(平成元年)、傘下の有力組織・山健組を率いた武闘派、渡辺芳則を首領に据える五代目体制が発足。暴力団対策法施行の年でもあった1992年(平成4年)には、直系組織総数が三代目体制下の1963年(昭和38年)以来の最大数(120超)を記録した。

五代目体制期の1995年(平成7年)1月17日に阪神・淡路大震災が発生すると、渡辺自身の陣頭指揮による組織ぐるみの災害救援活動を展開。その活動は神戸新聞社の記者でさえ『半端なものではなかった』と言わしめた。
1997年(平成9年)になると五代目体制開始以来の非常事態と言われた「宅見若頭射殺事件」が発生。この事件は以後の組織に混迷をもたらす未解決の懸案事項となった。これには驚いた!新神戸オリエンタルホテルでの射殺事件だったからだ。
2004年(平成16年)より渡辺は長期休養に入るとともに組織運営の全権を執行部へと委譲していたが、翌年の2005年(平成17年)7月に引退を表明。予期なき突然の引退であった。ここに16年間の長きにわたった五代目体制が終焉。そして、若頭の役にあった司忍(本名 篠田建市)の新たな襲名をもって、同年のうちに六代目体制が発足し現在に至っている。



おいらは、子供の頃から、山口組というヤクザの大親分が我が町、神戸市灘区に住んでる…というのはもちろん知っていた。中学校からの帰り道には、その山口組の大親分の田岡一雄氏の『田岡御殿』の横を通って帰った時もあったし、連れの家が田岡御殿の近くにあって、連れの家に遊びに行く時に少年ながらに少し緊張したのも覚えている。そして田岡御殿の周りには常に…兵庫県警のパトカーが常駐していた。

しかし、この歳になるまで一度たりとも彼らのせいで、被った被害など何もない。逆に、彼らに灘区を守ってもらっている!という認識が根付いているのだ。おそらく、灘区に住んでいるの区民は同じ事を思っているだろう。
高校の連れの中には、山口組直系、津の大親分を父に持つ友人もいたし、彼の結婚式も元町の神戸オリエンタルホテルで盛大に行われた時も列席した。黒塗りのセンチュリーやクラウンが駐車場を埋め尽くしていた。神戸で行われたので、山口組の若頭らも来ていたんだろう。余興には、月亭可朝が来ていた。❝ボインは 赤ちゃんが吸うためにあるんやで〜♪お父ちゃんのものと違うのんやで〜♪❞😁
その友人の親父さんが仕切る都市、”津”にも招待されたり、学校ては、喫煙で親呼び出しの時も、わざわざ来られていて、教師の心ない言葉を一喝!して、他の母親全員とその場を退席した事もあった。
教師は一体、何を言ったのか…それは、ある教師が「こんな馬鹿な息子さんを持って、親御さん達も大変ですな!」と言ったのだ。お父さんは、間髪を容れずに「あんたは何を言ってるんだ!大事な息子をお持ちの親御さんに向かって失礼だろ!」「彼らの資質の問題ではない!興味本位でやった事だし、誰にも迷惑をかけてはいない!そして彼らはみんな良い子だ‼️🤬」「こんな良識のない馬鹿教師とこれ以上話をしても無駄です!さっ、皆さん帰りましょう!」と促され、全母親全員帰ったのだ。
おいらのおかんは『◯△君のお父さん、カッコよかったよ!』と、感心していた。卒業式の後は、俺たち8人くらいを、三宮の中華料理『神仙閣』で、卒業を祝ってくれた。酒、煙草はもちろん解禁だった。親分は男盛りでとても紳士的だった。男なら惚れるきっぷの良さがあった。夏には津市にある組に遊びに行った。クルージングや水上スキーを体験させてもらった。宴会にも参加した。連れは組の皆から”若”と呼ばれていて、三重県の複数の組長がこぞって来ていた。みんなとても楽しい人達だった。こんなガキが相手だったにも関わらず。
おいらは、山口組は13歳から馴染みもあり、❝必要悪❞だと信じて疑わない。彼らがいたから、神戸市は、平穏に半世紀以上過ごせて来たという想いが強い(一和会は別)本物は決して堅気には手を出さないのだ。
高校の時には、大晦日の夜から京都に連れ数人と初詣に行った時、八坂神社の階段で着物を来たヤバい奴ら六人に絡まれた。ビーバップの菊りんに似たヤツに、「あんたら何処から来たんや?」と、言われ「神戸やけど」と応えると「本場やな!まっええやろ」と言って何も起こらなかった。

大学生の時に、付き合ってみたい女の子が神戸山手女子短大で、その友達が田岡一雄の長女の田岡由伎だった事。後に結婚相手が新幹線で意気投合したシンセ奏者の喜多郎ということに驚いた。
そんな山口組の御膝元、灘区に住んでいるお陰で、何もややこしい事に巻き込まれなかったことには、感謝している。灘区六甲は実に平和な町だ。さんぺんは多かったけど(笑)彼らとも顔見知りやったから何の問題もなかった。
山口組には何の恨みもない。地元の人に出ていけ!と言われないように彼らなりに災害が起きたときには、真っ先に義援活動に名乗りを上げるのだ。任侠を地で行っているのだ。
【任侠】強きをくじき弱きを助ける精神、またはやくざの建て前を意味する言葉。
そして組は解散して、お菓子を出すらしいよ🤠ちょっと❝ほろ苦味❞で菱形◇の…
❝山口グミ❞ってな!🤣🤣


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