これからは、笑☺️Must Go On❣️は、③の付く日と、③倍数の日に投稿します,と、言ったけれども、今日は《号外❣️》という事で。コラムのネタは生もの時ピチピチ🐟があるのでアクセスしてみて下さい。
昨日今日と、朝ドラ『舞い上がれ!』を観れなくて、U-NEXTで2日分さっき観終わった。
横山裕の演技の上手さにオイラは号泣!😭😭してしまった。
第88話が2月7日に放送され、インサイダー取引疑惑の悠人を演じる横山裕の演技が素晴らしかった。
悠人(横山裕)は雨のなか公園で倒れているところを、久留美(山下美月)の父・佳晴(松尾諭)に救われる。低体温症の状態だったが看護師の久留美に看病され、めぐみ(永作博美)と舞(福原遥)が迎えに来て帰宅した。 舞に亡き父・浩太(高橋克典)が書いていた「歩み」ノートを差し出された悠人は、読んで見ると、そこには「才能を努力して伸ばしてきたんやな」「いつか悠人のことを分かりたい」などと記されており、悠人は「オヤジ、俺のことを分かろうとしてくれてたんやな…」と涙。
仏壇の前で「仕事も信用も、オヤジと話し合うチャンスも、どんだけ後悔しても二度と取り戻されへん。オヤジ、ごめんな…」と目を覆って号泣した。
クズキャラになる一歩手前ギリギリの横山裕の演技には泣かされた。(ó﹏ò。)ウゥゥ
男は、多かれ少なかれ、親父と反目して生きて来てるもの。親父が立派なら立派なほど、その関係の乖離は大きいものだ。
俺の親父の家は決して裕福ではなかったけど、貧乏ながらも、家業の八百屋を手伝いながら、独学で勉強に励み、東北大学に入り首席で卒業した。卒業後も陸軍士官学校に入り軍曹までになったらしい。零戦には乗っていなかったけど、戦闘機乗りだった。そしてシベリアでの抑留の経験を持つ。
その後、三菱電機に入社し技術屋として部長になり、数多の発明をしている。いつも大きな図面を製図用紙に書いていたのを子供ながらに覚えている。とにかく数学と物理脳だった。
俺は社会人になるまでは、親父とほとんど口を効くことはなかった。
元軍人の親父には、俺のやる事なす事が気に入らなかったんだろうし、殴られた事も度々あった。とにかく親父と笑いあった事など、1度たりともなかったのだ。
まるで、線路のレールのように決して交わることの無い関係だった。
しかし、年を食う度に、親父とは少しは言葉を交わすことも増えたが、それでもおかんとの会話の量の約1%にも満たなかったはずだ。
親父の最後の死に目にも会えずに、今までの感謝の気持ちも、親父の望む息子になれなかったことの詫びの言葉も言えずじまいに親父は亡くなった。
そんな事をつい、思い出してしまったのだ。
横山裕は、関ジャニの中でも、一二を争う程の演技派なのは解っていた。
前に、映画かドラマで学ランを着た横山裕がいた。
その時の髪型と目つきが鋭い、横山裕の印象が強烈に残っている。
子供が憧れるヤンキーだったと思う。
そんなジャニーズの中でも、一流の演技が出来る二宮君に負けず劣らずの演技派なのだ。
あの横山裕の切れ味鋭い!目つきと学ラン姿をもう一度観てみるか!
!( ˙º˙ )アッ‼️そうや!思い出した💡
映画『水球ヤンキース』や!ソヤ(ง ˙˘˙ )วソヤ
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昔の男は何であんなに寡黙だったんでしょうか?
私も親父とちゃんと言葉を交わすようになったのは、親父の晩年の10年ぐらいです。
私も親父に褒められたことはありませんが、きっとSaichinのお父様も息子を愛していたと思います。
近くにいれば息子がどれだけ周りから好かれているか、いちばんわかっていたはずだから。
もちろん、息子を愛する気持ちに理由なんかいりませんが。
たまにはいい事言うやん(〃’▽’〃)
泣けるぜぇ~(т-т)
親父の遺言書に、「佳和は、社交的で友人も多く、敵を作らない性格だからなんとかなるだろう。頑張れ!」みたいなこと書いてあって、俺、それ読んで号泣したわ。
俺がWAVEに入社して、船橋店に赴任した時、突然!親父から電話があって初めて居酒屋で酒を飲んだわ。
2人だけで飲みに行ったのは、それが最初で最後やった。
親父を誘って、もっと飲みに行けば良かった…と、後悔したわ。
このコメントを読んだ方でまだ、お父様がご健在なら、今のうちにお父様を誘って飲みに行ってくださいね。
後々、後悔もなくとても良い思い出になるハズですから。
それは良い経験でしたね。私は親父とさしで飲みにいったことはありません。羨ましいです。
仕方なく、最近はたまに息子と飲みに行きます。寡黙で威厳のある父親には成れませんでしたが。
お喋りで、オモロい親父でいいんやない??理想は、所ジョージのような親父やね。
はじめまして。
ドラマは観ていないのでわかりませんが、ちょうどサイチン様の世代は親の世代との価値観のギャップに悩まれる方は多かったのだろうと推測します。
時代が違いすぎました。
お父様はシベリア抑留を体験されたのですね。
とってもとっても寒くて怖い思いをされたんですね。
どうぞ温かいお茶をお供えして差し上げてください。
それに引き換え、息子の世代はもっとも平和で自由な太陽の時代。
お父様は少しジェラシーを感じられたかもしれませんね。
とは言え、人の命が軽んじられた時代を生きたお父様にとって、明るい太陽の下で元気に自由に生きている息子はまぶしかったに違いないです。きっと誇りに思われていたと思います!
原人様??(,,・・,, )!で、いいんですね??(笑)
確かに、親父は俺に嫉妬してた向きはありました。
俺は決して親父に頼らず、おふくろばかりに頼ってたのも面白くなかったんやと思います。
「俺はいつか親父を倒してやる!」と、思いながらも最後まで完敗でしたたね。(笑)
でも、俺が究極に困った時に相談すると、必ず手を差し伸べてくれたのも事実!
親父が亡くなる前に、姪の結婚式に出るために2人で京都に出掛けた時、親父とJRの電車の中で喋った時には、親父の顔がほころんでいたのを覚えています。
恐らく、もっと俺と話をしたかったのだと思いますね。
父と息子…俺たちの世代は生きてきた背景が違いすぎて、平和ボケした俺を見て、「情けない奴だ」と、思われても仕方の無い事ばかりしてました。
それでも俺は今でも親父を尊敬しています。『必殺技!仕事人』として、仕事のできる不器用で器用な男だったと思います。