歌は拙いけど、雰囲気は持ってるよね。
ソロはまるでサンタナ🎸みたいになっとるやん!😯
昨日のeuphoria💟musicの選曲で、ふと思い出した!🤔 そう言えば、大森隆志は今、どうしてるんやろ…と色々と調べたら、『週刊女性プライム』に大森隆志本人が全てを語った記事があったので、お借りしました。
2001年8月7日に脱退を発表した。本人のコメントによると、2、3年という短い期間ではなくじっくりと長い時間をかけて大森個人のソロ活動に集中するため」と言う事だった。噂では、大森隆志は、創価学会会員であり、サザン脱退の原因は学会への熱心な活動にあると報じられたことがあるが、アミューズはそれが脱退の原因であることを否定している。
《元サザンオールスターズ・大森隆志、結成から脱退そして逮捕のすべてを語る》
『サザンオールスターズ』の元ギタリストである。’01年にサザンを脱退しているが、バンド結成のキッカケとなったのは、大森の存在だった。プロになる気はなかった桑田「地元が同じドラムの松田弘とは、高校1年のときから一緒にバンドをやっていました。プロになるには東京に行かなくてはダメだということで、青山学院大学に進学するために上京。青山学院大学合格。
ちなみにおいらもこの年、青山学院大学経営学部経営学科に合格した。桑田佳祐と全く同じ経営学部経営学科だ。おいらは地元の甲南大学経営学部に合格していて、その後に自分は東京に馴染めるのか…を試すために約1ヶ月、慶応大学の連れの田園調布の家に住まわしてもらったけど、東京には馴染めなかった。親に既に甲南大学の入学金の50万円を出してもらっていたので、さらに50万出してもらうのに気が引けたので、青山学院の入学を辞退したのだ。おかんは「お金の事は気にしなくていいからね」と言ってくれたけど。何より地元に留まった理由は、東京で慶応大学のS君の連れで1つの年上のカックンという、六甲住みの先輩に「甲南大受かってるんやったら絶対に地元の方がええぞ!東京は物は高いし、何より関西人には住みにくい街やで!なかなか受け入れてもらえへんからな!甲南大に行っとけ」というアドバイスが効いた。今では、青山学院大学を選んだ方が良かったかな🤔…と思う。人生は、選択で大きく変わるものやね。
話を、大森隆志に戻そう。


大森隆志は青山学院大学に入学して数日経ったある日、教室で楽器を演奏する音が聴こえてきて、それに合わせて日本語で歌っているはずなのに、歌詞がサッパリわからない、強烈な個性の歌声も聴こえてきて。「コイツをヴォーカルにしてバンドを組みたい」と思った。それが桑田佳祐でした。「で、”一緒にバンドやろうよ”って誘ったの」 青学で『ベターデイズ』という音楽サークルに入り、そこでバンド活動を始めた。

「俺が“プロを目指して頑張ろうよ”って言うと、桑田が“いいよ、お前に任せるわ”って。俺がバンドを仕切ることになり、ドラムは弘を連れてきたけど、キーボードをどうするか? そこで桑田が“スゲーいい女の子がいる、男みたいな泥くさい演奏だから”って言って、連れてきたのが原由子でした。ベースの関口和之と、パーカッションの“毛ガニ”こと野沢秀行は後で入りました」

プロ志向の強い大森が、バンド活動を引っ張る形に。「『ヤマハ主催の音楽コンテスト』に応募しました。これがサザンのすべての始まりです。予選を勝ち抜いて、決勝で桑田が『ベストヴォーカルー賞』を受賞。バンドも入賞したんです。参加していたのはカシオペアやシャネルズなど、凄いメンバーでしたよ。でも、桑田たちはプロになる気はなかったですね。説得しに茅ヶ崎の桑田の家に泊まりにいくと、お父さんからは“佳祐は自衛隊に入れるからダメだ”って言われましたから(笑)」


それでも、’78年6月にデビューすると❝勝手にシンドバッド❞がいきなりヒット‼️して、3曲目の❝いとしのエリー❞のころは、ライブが終わった後に『ザ・ベストテン』の中継が入り、それから『オールナイトニッポン』の収録。帰って朝5時に寝て、すぐ6時に起きてサイパンへCM撮影。日本に帰ったら、そのまま会場でコンサートというアイドル並みのスケジュールに。でも、初任給は5万円でした。❝いとしのエリー❞がヒット‼️して、やっと11万円。“それはないよな”と、みんなで言い合って、どんどん上げてもらいましたけど(笑)」
「『ザ・ベストテン』の常連になったが、出演するときは、なぜかコスプレ姿。コミックバンドの扱いでした。みんな”こんなはずじゃなかった”と思っていましたよ。ただ、お茶の間のことを考えれば、見てるほうは楽しければいい。だから”それでいいじゃん、頑張ろうね!”って、励まし合っていました。’82年の❝チャコの海岸物語❞くらいまでは…」
「桑田はいかりや長介さんから”お前、面白え〜な、ドリフに入らないか?”って言われたみたい。桑田も”いやぁ~、マイッタよ!🧑”って(笑)」 デビュー前から学生バンドとしてインディーズ活動を続けていた彼らは、いざ飛び込んだ芸能界の空気にも、なかなかなじめなかったようだ。
デビュー前から学生バンドとしてインディーズ活動を続けていた彼らは、いざ飛び込んだ芸能界の空気にも、なかなかなじめなかったようだ。

デビュー直後の右後ろから時計回りに大森、関口、桑田、原、松田、野沢
「初めて『夜のヒットスタジオ』に出たとき、楽屋が1つしかない大部屋だったんです。そこで和田アキ子さんが俺たちを見て“彼らは何?見学に来た人たち?”ってマネージャーに言っているのが聞こえてきた。俺らはライブハウス育ちだし、学生みたいな風貌だったから“ザ・芸能界”を違った目で見ていました」
ロックバンドも活躍していたが、サザンはその中でも異色の存在だった。「ベストテンに初めて出たとき、楽屋に入ったら『ゴダイゴ』がいた。すごく貫禄があっておっかないんですよ。大先輩だし、ビクビクでした。ミッキー吉野さんはGS時代からいる人ですもん。
同世代だけど『世良公則&ツイスト』はカッコよかったね。向こうは正統派ロックバンドで、こっちは衣装がジョギングパンツ(笑)。桑田が宙づりにされて歌ったり、檻の中で歌ったりさ。世良クンにはそれがなかったでしょ」
サザンはヒット曲を連発するが、’86年にいったん活動休止。「最大の危機でしたね。原坊が出産して休んでいて、桑田はKUWATA BANDを1年限定で結成。素晴らしいバンドだったけれど、ズルズルとのびてしまっていた。俺が“サザンのファンが待っている”って桑田に言ったの。それで’88年に復活ライブができたんだけど、解散状態だったサザンをまたやらなきゃダメだって、俺がメンバーを説得して歩いたんです。」
サザンを復活させた大森だが’01年、自らが脱退。’06年には覚せい剤取締法違反と大麻取締法違反で逮捕された。
【週刊女性Prime】
叙情的なソロ: サザンオールスターズの楽曲に彩りを添える、感情豊かでメロディックなギターソロを多くプレイした大森隆志。彼のギターは歌心にあふれ、楽曲のメロディを補強するような存在感がありました。❝ミス・ブランニューデイ❞や❝いとしのエリー❞のギターソロは、まさにその存在感のある演奏だったと思う。( ꈍᴗꈍ)
編曲:片山敦夫/サザンオールスターズ
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