作詞:Parton Dolly
作曲:Parton Dolly
編曲:David Foster
ホイットニーの名曲の中でも、超人的な歌唱力に世界中の人達が度肝を抜かれたのはこの曲でしょう。
この作品において、もう一つ忘れてならないのはプロデューサーのデイヴィッド・フォスターの存在です。ホイットニーの見事な歌唱は勿論ですが、彼女の歌を引き立てたのもデヴィッドの功績は大きいといえるでしょう。
ドリー・パートンのどちらかと言えば地味なカントリー・ソングを、華やかなポップスに磨き上げ、生まれ変わらせたのは“音の錬金術師”デヴィッド・フォスター“の手腕によるものです。
ヴォーカル以外のサウンドが驚くほど抑えられていて、特に前半はほとんどホイットニーのアカペラ…といった感じです。彼女の楽器をも凌駕する繊細で力強いその声をを最大限に活かしています。ホイットニーの呼称が『The Voice』と言われる所以です。
プロデューサーの仕事は、素材をより華麗にグルーヴィーにブラッシュアップ✨を施すことです。
ホイットニーは、絶世のヴォーカリストと信じているからその美しさをそのまま生かすことで、素晴らしい作品を残そうという彼の信念が感じられる職人の成せる技です。
“And I…I Will always love you~
(いつの時も、あなたを愛するでしょう)…のフレーズを超人的な力強さで歌い上げるホイットニーの歌唱によって、つい“情熱的な恋の歌”と思いがちですが実は“別れの歌”なのです。
“そばにいても何もしてあげられない私だから、あなたの元を離れます。でも、“I will always love you…”
という🎦『ボディー・ガード』の切ない物語のエンディングのシーンにピッタリでした。
前置きが長くなりました。(´>ω∂`)☆テヘッ!
昨日、シネマズミントに映画『ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY』を観にいきました。
美しく力強い歌声で世界を魅了した、ホイットニー・ヒューストンの半生を描いた伝記映画。
『ボへミアン・ラプソディ』のアンソニー・マッカーテンが脚本、『ハリエット』のケイシー・レモンズが監督を務め、ジャンルも人種も超えて愛された数々の楽曲の誕生の瞬間や、歌うことに全てを捧げた彼女の栄光と苦悩、光と影を“I Will Always Love You”など数々のヒットソングとともにドラマティックに描き出す。
ホイットニーを演じるのは『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』のナオミ・アッキーが主演を務め、ホイットニー・ヒューストンを見いだした伝説の音楽プロデューサー、クライブ・デイビスを『プラダを着た悪魔』のスタンリー・トゥッチが演じる。
【ホイットニー・ヒューストン略歴】
1963年米ニュージャージー州ニューアーク生まれ。
名プロデューサーのクライヴ・デイヴィスに見いだされ、アリスタ・レコードと契約を結んだ。
デビューアルバム『そよ風の贈りもの』の大ヒット‼️で頭角を現し、その後、7曲連続で全米シングルチャート1位👑を記録。これはビートルズ’を抜く快挙‼️
1991年の第25回スーパーボウルでは国歌を斉唱した。
映画『ボディガード』(1992)ではケヴィン・コスナーと共演し、楽曲”オールウェイズ・ラヴ・ユー”を世界的に大ヒット❣️させた。
1992年にボビー・ブラウンと結婚し、故ボビー・クリスティーナ・ブラウンさんを出産(ホイットニーの一人娘ブラウンが2018年に22歳で死亡)
したが2000年以降、ドラッグの常用や夫の暴行などでテレビや誌面で取り上げられ、2004年にボビーと離婚が成立。
長い間、音楽よりも自身の私生活が話題になる中、デイヴィスのもとで復活を果たすが、2012年2月11日に不慮の死を遂げた。
俺が初めてホイットニー・ヒューストンの、名前を知ったのは俺が29歳の時で、大阪ミナミのBAR🥃で飲んでいた時に、店内で流れていた曲があった。
実に素晴らしい女性ヴォーカルで、マスターに「ねぇ、今流れてるレコードのJKT見せて?」
アルバムはテディー・ペンダグラスの『Love Language』だった。
今流れているのは“Hold me”という曲だと分かった。1stアルバム『そよ風の贈りもの』にも入っている。
クレジットを見たらそこには“Whitney Houston”と、クレジットされていた。
まだ、ソロ・デビューする前のホイットニーだった。
誰よりも早く俺はホイットニー・ヒューストンを見つけたのだ。俺はその名前をメモっていて、ずっと気になっていた。
ソロ・デビューはするんだろうか⋯と🤔
翌年の1985年遂に彼女のデビュー・アルバム『そよ風の贈りもの』のリリース情報をアリスタレーベルからデビュー✨することをフォノグラムの注文書で知った。
その時の感激⸜(ˊᗜˋ)⸝は今でも覚えている。
俺がディスクポート西武千代田店でマネージャーをしていた時だった。
とにかく人に薦めまくった!
俺は、ホイットニーがとにかく好きで好きでしかたがなかった。
そしてホイットニーの来日を心待ちにしていた。
デビューアルバム発売から3年後の1988年10/02、大阪城ホールでの初来日が決まったのだ。
もちろんチケットを真っ先に買ってその日を心待ちにしていた。
俺がライブに行くのはいつも平日だった。
土日公演というのにはほとんど行ったことがない。
平日の開場はだいたい16時(15時)開場➡️19(18時)時開演というのがセオリーだった。
俺は後輩と環状線の大阪城ホール駅の出口ところで18時半に待ち合わせをした。
しかし、大阪城ホールの周りには人がいない‼️Σ(゚д゚;)「どういうことや⁉️誰もおらんがな!(・・)/ why?」
俺は嫌な予感がしてホール内に入った時、オーディエンスは皆、総立ちだった。
なんと!コンサートはアンコールに突入していたのだ‼️入口からステージまで200mくらいあったのでステージで歌っているのが、恋焦がれたホイットニーだとは思えなかった。「ホント二ヒューストン⁉️(つд⊂)ゴシゴシ」紛れもなく声はホイットニーだった!
「アチャー‼️(;゚Д゚i|!)今日は日曜日で、開演は17時やったんか!なんで、チケットの内容を良く見なかったんやろ‼️ガ―(´・ω・|||)―ン!!
まさに!
( ‘ω’)/エンダァァァァァァァァァァァァァイヤァァァァァァァァ~~~🎶「おわた…」だった。
あれだけ待ちに待ったホイットニーのコンサートやったのになんという事でしょう‼️⁝(ᵒ̴̶̷᷄⌑ ᵒ̴̶̷᷅ )⁝高性能な望遠鏡まで買ったのに…一瞬だけその望遠鏡でホイットニーを観たら、妖しく艶のあるシームレスを彼女は穿いていて、スポットライトにセクシーに輝いていた。
俺はホイットニー・ヒューストンのコンサートを観れなかった事を『一生の不覚』として、今でも後悔している。
でも、もう一度ホイットニーに会えるのだ‼️( ᐛ )/
3/25,26大阪フェスティバルホールにて、バンドの生演奏でホログラムで彼女は甦るのだ❣️
な、なんと!『ホイットニー・ヒューストン ホログラムコンサート』が開催される事が決定した!
『ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』『ボヘミアン・ラプソディ』『ロケットマン』のどの映画🎦よりも涙を流した映画だった。
オープニングから直ぐに“Greatest Love of All” で、即泣き😢してしまった。ホイットニーのその素晴らしき歌声に感涙してしまったのだ。
「ホイットニー・ヒューストンはやはり凄い‼️そして素敵だ❣️」
“もしかしたらホイットニーは神の子だったのかもしれません…”
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大阪城ホールのホイットニー、私が行った数百のLIVEの中で1番短いLIVEでした!
でも今思うと生前の、しかも全盛期の彼女が観れて良かった。
晩年は不幸に見舞われたみたいですね。
いちばん短いコンサートで、いちばん長く後悔したライブだった。
数百って!マジですか??
サイチンさんとは音楽感性が似てるようですね
たまにホイットニーの曲を聴くと、今でも涙が出ることがあります
晩年の彼女の不遇はやはりボビー・ブラウンとの出会いしかないと思います
まさか愛娘まで後を追うとは
「HoldMe」「AllAtOnce 」特にこの2曲聞くと何故か涙が出て来ます
教会葬儀での駆け付けたケビン・コスナーの弔事スピーチにも涙しました
語り草になってるスーパーボールでの国歌斉唱は本当に鳥肌が立ったの忘れないです
リロボーイさん、こんばんは。
『All at Once』は俺も凄く好きな曲です。
10年前の2/11俺は車の中のFM COCOLOで彼女の訃報を聞きました。
俺は放心状態になりました。
その時に彼女を偲んで『All at Once』が流れ、号泣した事を覚えています。
有名人の訃報を聞く度に悲しい気持ちになります。
マイケル・ジャクソンの時も車の中でしたし、グレン・フライの時もです。
泣きそうになったり涙ぐむ事はあっても、本当に号泣したのはホイットニーだけでした。
ホイットニーのホログラムコンサート是非とも行ってください。俺はもちろん行きます。
また、アホみたいに大泣きするのは目に見えてますけどね(笑)